2017年1月27日 (金)

枕山の父・大沼竹渓の墓  薬王寺

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この写真は昭和59年(1984)5月の五月晴れの日、港区三田の薬王寺に母と妹と3人連れ立って、大沼家の墓参りをした折撮ったものです。大沼家代々の墓ですが、この2基の墓石は残念ながら今はもうありません。

 家紋(抱き茗荷)付きで大沼氏とあり、延享四丁卯年(1747)、宝暦五乙亥(1755)等刻されてあります。

 そして、それと向かい合うようにして枕山の父・大沼竹渓(ちっけい)の墓がありました。
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  大沼竹渓の墓

 墓石には「仁譲院徳翁日照居士」とあり「文政十年丁亥十二月廿四日歿享年六十六  孝子 基祐 謹建」とあります。基祐は竹渓亡きあと大沼家を継いだ枕山の叔父にあたる次郎右衛門基祐で、大沼杉井(さんせい)を名乗りました。  この竹渓の墓は現在移され、薬王寺の墓所入口を入ったすぐ左手に安置されています。

 

 私たちがお参りした時には、竹渓の墓の横に、杉井の墓が並んでありましたが、今はありません。
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    大沼杉井の墓

 永井荷風は大正12年(1923)8月24日ここを訪れています(日記)。そして『下谷叢話』には、わたくしは墓地一面に鳴きしきる蝉の声を聞きながら徐に六基の古墳を展した。とあり竹渓、杉井の墓誌が記録されています。

  杉井の碑の側面には「鳰なくやから崎の松志賀の花。槐陰。」となした発句が刻してある。とあります。

 私たちがそこに立った時荷風が展してから61年の年月が流れていました。 杉井の発句は摩滅してかろうじてそれかと思われ、ありあわせの紙に鉛筆で写し取ってみたのでした。

 そして今日、平成29年(2017)、荷風の訪れた年から94年の時を経ており、大沼家の墓は新しく建立され、古墳はそこには1基もなく、枕山の父・竹渓の墓石のみが寺で静かに時を刻んでいます。
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薬王寺と竹渓の墓(現在)
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枕山の墓は、谷中の瑞輪寺にあります。

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2016年11月29日 (火)

太平詩屋出版の「太平詩文」

 『太平詩屋』出版の(江戸明治漢詩文研究雑誌)「太平詩文」がこの11月(2016・11)“第七十号“を以て終刊となりました。

 『太平詩屋』からは枕山の「東京詞」(明治2年・52才)が魅力的な複製本で“太平文庫9”として出版され、「江戸名勝詩」(明治10年・61才)」は停雲会の注解を得て「太平詩文」に掲載されました。

 そして先年(2014・12)内田賢治編著・「大沼枕山逸事集成」が“太平文庫76”として出版され、漢詩人として生涯を生き抜いた枕山の姿が残されました。

 この度、「太平詩文」終刊号には内田賢治氏の“天保十三年の大沼枕山”として、25才の若き日の枕山の、漢詩人として生きていこうと頑張っている姿が、その詩の注解を得て目に浮かぶように語られています枕山と共に若き鱸松塘が居ます。横山(小野)湖山も居ます。

 なんだかうれしくなりました。

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2015年10月10日 (土)

『人性善」の印

 この印はめずらしい鉄製の印で、枕山先生の愛用のものと我が家に伝わっています。

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 文字はユニークな文字で、読みにくいのですが、我が家では『人性善』の印と伝えられて来ました。右上二本足で立って目があるようなのが「人」の文字、その下が「性」、左の羊が書いてあるのがおそらく「善」の文字を意味しているようです。の字にはがいますでしょう。

 表に「天保年中」と書かれ、「七十×」の横にある名前はこの印の作者のようですが、残念ながらよくわかりません。七十余歳の人が天保年間に作ったのでしょうか。

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 何れにしても、枕山先生がこの印を好んでいたことは確かで、幾つかの書幅で、陰・陽印の後に、この印が静かに押印されているのが見られます。

 

 「人性善」は人間の性はもともと善いものであるという性善説を謳ったものでしょうから、枕山先生という人も、人の性を善と信じる人だったと言えると思います。

 この印を見ると、枕山先生の心の温かみを感じずにはいられません。

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2015年8月17日 (月)

ドナルド・キーンさんと枕山の『東京詞』

  8月9日の東京新聞「ドナルド・キーンの東京下町日記」には寄贈した書籍などのコレクションに囲まれたドナルド・キーンさん=東京都北区の区立中央図書館でとして、お元気なキーンさんの写真(伊藤遼氏撮影)が掲載されていました。

 

 そしてふとキーンさんの後ろの掛け軸に目が止まったのです。

もしかして枕山! 早速出掛けました。

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 北区立中央図書館では、ドナルド・キーンさんからの寄贈図書を「ドナルド・キーン コレクション」として公開しています。

 

 図書総数787冊、絵画6点、掛け軸1点です。この掛け軸は大沼枕山の『東京詞』で展示されていてちょっと見えていたのでした。

 

 『東京詞(とうけいし)』は明治2年江戸が明治に激変するさまを詠んだ七言絶句三十首です。江戸の文人である枕山には文明開化に右往左往する東京は耐え難かったのでしょう。その詩は揶揄いっぱいのものでしたから、弾正台の糾問を受けた(廃却処分を命じられた)のです。しかし江戸情緒が失われていくのを惜しむ人々からは喝采をうけたようです。明治24年亡くなるまで丁髷姿を通した人ですから。

 

 キーンさんはその著書「日本文学のなかへ」昭和54年9月30日(株)文芸春秋発行

 

 ・・・木下彪の著書『明治詩話』を見つけたのも同じころである。あの本は戦時中の出版で、五百部しか刷られていなかった。ところが、やはり京都の古本屋で出遇ったために、私は大沼枕山のことを書けた。永井荷風も『下谷叢話』に枕山伝を書いてはいるが、明治元年から二年にかけての枕山の作である『東京詞三十首』を散佚したものと信じていた。『明治詩話』に教えられて、私は明治文学の最初の作品にめぐり合ったのである。・・・としておられます。

 

 『東京詞』はキーンさんによって再び世に出る事が出来たのです。

 

 掛け軸は『東京詞三十首』中の一首を枕山が書いた一幅でした。出会えた私は感激するばかりです。キーンさん有難うございました。

(参考)Wikipedia 「東京詞」https://ja.wikipedia.org/wiki/東京詞

添付ファイル エリア

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2015年4月24日 (金)

枕山の娘婿、大沼鶴林のこと

枕山の娘かねの夫であった大沼鶴林(写真)は、漢学者として、枕山の業績を継承た人なので、鶴林のこともこれからおいおい書きとめていこうと思います。

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わが家の蔵書に「大沼善先生点註」として明治30年に発行された「論語読本」という本があります(写真)。これは漢文を広めようと鶴林が出した教科書です。明治も後半になって、次第に西洋の文化におされ、漢文を学ぶ人も減少する傾向がありました。そのような中、鶴林は漢学普及のために奮闘しました。「善」は善次郎という鶴林の名です。出版したのは「金刺芳流堂」と書かれています。

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2015年3月21日 (土)

枕山先生は豆腐がお好き

 明治20年に刊行された西田春耕著「口嗜小史」は、江戸中後期の文人たち多数の食物の好みをとりあげた書で、それぞれの人柄を彷彿とさせる面白い話しが書かれています。著者の西田春耕は画家です。

 その中で、大沼枕山は豆腐が好物だと書かれ、豆腐の詩を作って返礼したことが記されていますので、ここに紹介します。

 

 “山人(枕山人=大沼枕山)曰ク、余豆腐ヲ愛ス。信州ノ人之ヲ知リ、年々凍豆腐ヲ送リ来ル。詩ヲ以テ謝セント欲シ、稿已ニ成レリ。其詩ニ云、

了冬晴箇々全。嚢盛筐貯遠堪伝。東都気暖凝成脆。北信風厳凍得堅。

彼金峰緻密。比他黄檗軽便。晃山消夏曾遊寺。下酒尤宜浸冷泉。“とあります。

(脆=もろい 晃山=日光 消夏=暑さをしのぐ 下酒=下酒物(酒の肴)

枕山先生は豆腐がお好きでした。勿論お酒あってのこと。

著者の春耕も無類の豆腐好きです。

 

「口嗜小史」は他にも数多くの文人の食の好物が上げられていて、渡辺崋山の団飯豆油炙(ニギリメシショウユノツケヤキ)をはじめとして、藤田東湖の炙鰍鰻(ウナギノカバヤキ)、徂徠の炒豆(イリマメ)、外史は丹醸(イタミザケ)とあります。さればあの方はと繰ってみますと梁川星巌老人は羊羹でした。

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2015年2月21日 (土)

枕山が圓朝と綱引き

明治15年に「皇国雷名の諸君見立力競」と題し、当時の著名人300余人を集め、知名度や力量が拮抗するふたりを一組にして綱引きをさせるという面白い錦絵が出されました。それを見ると、枕山は最前列に描かれ、相対する相手は誰あろう三遊亭圓朝になっています。こうしたことから、この時代漢詩が決して一部の人たちのものでなく、広く親しまれていたことが分かります。

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枕山と圓朝の隣りは徳川慶喜公で、さすがに慶喜公にひとりで対せる人はいなかったようで、16人と綱引きをしています。

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2015年2月11日 (水)

内田賢治氏編著「大沼枕山逸事集成」

龍谷大学図書館の内田賢治氏編著『大沼枕山逸事集成』が太平書屋から出版されました。実にご苦労のほどが偲ばれる一冊です。

 枕山の人となりが親しみやすく、いきいきと感じられ楽しい。

 中の一編に門人の河合次郎が枕山没後の明治24年に新聞に連載した「枕山先生逸事」があります。その連載第十五回の記事に安政の大地震直後に、すぐさま枕山が“地震行”と題した詩を作ったことが記されています。記事には

・・・ 安政二年十月二日都下(とか)地大に震ふ先生長篇を賦し直(たゞ)ちに片紙に印刷して知己(ちき)に頒(わか)つ或ハ曰く書舗(しょほ)に命じて之を售(う)る幾千百葉(ゑう)一時に散布す大に都下に膾炙(くわいしゃ)せり ・・・ とあり、その詩 ・・・ 大災異に遇(あ)はざれば真の敬戒を知らず ・・・ に始まる長い詩が全文載せられています。

 大地震の恐ろしさ悲惨さが、最近起きた災害の惨状と重ね合わせて想われて身に迫ります。

 内田氏はこの詩について「地震から政道を諷諫した作であり、刊行詩集からは窺われない枕山の一面が窺われる作として注目すべき作といえる」としておられます。

 諷諫(ふうかん)= 他のことに事よせてそれとなくいさめること。

枕山は幕府へ、民への救済への素早い対応を求めているのです。

 “花鳥風月の詩興に遊んだ”ばかりではなかった枕山先生がここに居ました。

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2012年11月 5日 (月)

荷風と鴎外そして枕山

昭和34年(1959)4月30日永井荷風は亡くなりました。

その日、独り逝った荷風の床には敬愛する森鴎外の「渋江抽斎」が開かれていたそうです。

「下谷叢話」に、荷風は鴎外とのひと時を記しています。不忍池あたりを述べて、

 

・・・明治四十四年の秋に至って、わたくしはこゝに森鷗外先生と相會して倶に荷花(ハス)を觀た事を忘れ得ない。その時先生は曾て大沼枕山先生に謁して(会って)贄を執らん(教えを乞う)ことを欲して拒絶せられたことを語られた。枕山が花園町に住してゐた時だと言われたから其の歿した年である。・・・

 

鴎外が同人たちと刊行した『志がらみ草紙 第十四號』(新聲社 明治23102日発兌)に枕山の「弁玉師和歌碑文」が掲載されています。

鴎外が枕山に会ったのはこの頃のことではないでしょうか。

『文学 特輯 鷗外研究』(岩波書店 昭和116月1日発行)に鴎外の妹、小金井喜美子の「森於菟に」という一文があります。

 

・・・舞姫をお書きになりました。・・・あれは花園町でお書きになったのです。裏二階の書齋で、不忍池は間にある家の木立でちらちらしか見えませんが、上野の森の傍ですから夜は淋しい位静かでした。周りに高い建物もなく、夏などは明け放すとよい風のはいる部屋でした。北側の窓から小藪を隔てて枕山といふ詩人が寐て居る二階が見えました、中風らしく氣の毒に思われました。賀古さんが「いやだなあ、あんなになるのは」。見る度にいって御出でした、ご自分もお酒を上がるものですから。でも賀古さんの終はお望み通り腦溢血であつけない程でした。・・・

 

この花園町の鴎外の家は現在“水月ホテル鴎外荘”となり鴎外ゆかりの邸が「舞姫の間」として残されています。

枕山が仲御徒町から花園町へ転居したのは明治23年の春で、鴎外は10月には駒込千駄木町五十七番地に居を移していますから、鴎外と枕山が小藪を隔てて暮らしたのは春から秋のおよそ半年間のことになります。

  この春大沼家では枕山の二人目の孫甲子が生まれています。この甲子は長じて小金井喜美子の夫君人類学者小金井良精の門弟、長谷部言人の妻になりました。

 

  荷風は鴎外の「渋江抽斎」などの伝記に倣って「下谷のはなし(下谷叢話)」に取り組んだと言われています。

 母方の祖父である鷲津毅堂の事蹟と併せて大沼枕山の伝を著したのでした。

 

「弁玉歌碑」横浜市指定史跡   横浜市神奈川区高島台5-2高島台公園内

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 幕末から明治初期の歌人大熊弁玉の歌碑。碑文の撰ならびに書は大沼枕山。

(『志がらみ草紙 第十四號』にその碑文が全文掲載されています。)

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2012年10月26日 (金)

永井荷風の「下谷叢話」

大正12年関東大震災の年、枕山の娘かねは麹町にある長女ひさの婚家、楠家に住まいしていました。泉鏡花の家から5,6軒の所です。10月には枕山の33回忌を迎える年です。

 この年7月23日、大沼家を継いだひさの長男正名(まさな)が心臓脚気で18才で亡くなり悲嘆に暮れるこの家に一通の手紙が届きました。差出人は永井荷風で、 近世詩人の伝記を調べ居り(略)、御先代枕山先生御生前の事に付御伺致度き事有之候とありました。

 荷風は8月22日の夜、楠家を訪れ、かねは問われるままに父枕山を思い出し、思い出し語ったのでした。

  荷風の日記(斷腸亭日乘)は大正12年の項に

八月廿九日。午前下谷竹町なる鷲津伯父を訪ひ舊事を聽く。毅堂枕山二先生事蹟考證の資料略取揃へ得たり。

 八月卅一日。終日考證物の資料を整理す。晩餐の後初て考證文の稿を起こす。深更に至り大雨。二百十日近ければ風雨を虞れて夢亦安からず。(中央公論社 荷風全集第十九巻)とあります。

 翌9月1日、関東大震災は起こったのです。

 幸い楠家は被害もなく、家族も無事でした。

 荷風の日記

十月八日。雨纔に歇む。午後下六番町楠氏方に隠居せる大沼嘉年刀自を訪ひ災前に借來りし大沼家過去帳を返璧す。刀自は枕山先生の女芳樹と號し詩を善くす。年六十三と云。この度の震災にも別條なく平生の如く立働きて居られたり。舊時の教育を受けたる婦人の性行は到底當今新婦人の及ぶべき所にあらず。暮雨瀟瀟。夜に入り風聲淅々たり。と記されています。

 そして鷲津毅堂大沼枕山二家の伝は「下谷のはなし」と題して、翌大正13年、雑誌『女性』に連載されました。

 この「下谷のはなし」は大正15年(1926)、春陽堂から「下谷叢話」と題して単行本で出版されました。

 それから昭和14年(1939)になって、荷風はその後寄せられた資料などをもとに手を加え「改定/下谷叢話」を冨山房から出版したのです。

 この冨山房版には枕山の肖像画が載りました。

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