2017年8月28日 (月)

国会図書館に寄贈した書簡等

 我が家に遺っていた枕山宛ての書簡や、詩文稿、門人帳など266点を、一昨年国立国会図書館に寄贈させていただきました。個人で私蔵するより、広く研究などにお役立ていただいた方が良いと考えたからです。

 この度国会図書館の月報に、そのことが紹介されました。「大沼枕山・鶴林の関係資料」(準貴重資料)として、内訳は書簡226通、草稿等28枚3冊1綴、人名録3冊、出納簿1冊、引札1枚、封筒(書簡に付属しないもの)3枚です。

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 枕山宛ての書簡は、菊池五山、釈梅痴、小野湖山、鱸松塘、杉浦梅潭、関雪江などの他、門人であった松平春嶽(大名、政治家)のものもあります。

松平春嶽の書簡

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 枕山の娘婿大沼鶴林宛ての書簡には、東久世通禧、品川弥二郎、西村茂樹、井上哲次郎、島田重礼、坪内逍遥、高橋泥舟などがあります。

品川弥二郎の書簡

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 そのほか鶴林の娘婿楠荘三郎に宛てた永井荷風の書簡もあります。

永井荷風の書簡

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2017年8月23日 (水)

勝海舟と枕山

勝海舟と枕山は、維新の頃、枕山が「勝海舟を訪ひ、大いに時事を論じ、慷慨激昂、忌憚する所なし」と信夫恕軒の「大沼枕山伝」に書かれています。意気があった二人であったようです。

 

枕山が亡くなった時の報知簿が我が家に残されていて、そこに「勝安房」の名が記されています。

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岡市葵区の屋に海舟ゆかりの宝寿院があります。孝行だった海舟が、母ために建てた隠居所ですが、母親は梅が好きだったということで、枕山の「梅花」の詩が遺っています。もとは襖に貼ってあったというその詩は、1974年に私が尋ねた時には剥がされて、別に保管されていました。左隣には柳田貞亮(正斎)の書が並べられていました。柳田貞亮は清水の「烈祖殿址之碑」や「東京詞」でも枕山の詩を書いている書家で、親しい間柄だったことが知れます。

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2017年8月22日 (火)

清水の「烈祖殿址之碑』

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静岡市清水区岡町の下清水八幡宮境内に「烈祖殿址之碑」の石碑が建っています。これは駿府の家康(烈祖)のために、その息頼宣が清水に建てた「清水御殿」を偲んで、嘉永7年(1854)に建立された碑で、大沼厚(枕山)の撰が刻まれています。

江戸から遠く離れた地にある枕山の遺跡なので、私も以前から見たいと思っていた碑でしたが叶わずにいたところ、弟の友人で清水在の山本量正さんが「大沼厚」の名を見つけ、弟を通じて写真を送ってくださいました。

書は柳田貞亮(正斎)で、枕山の「東京詞」にも彼の書が見られます。枕山とは殊に親しかったことが知られます。

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山本さんのお話では、この碑は金刀比羅神社のそばに建てられていたものを、昭和40年に隣接の八幡神社境内に移設したとの事でした。

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2017年1月27日 (金)

枕山の父・大沼竹渓の墓  薬王寺

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この写真は昭和59年(1984)5月の五月晴れの日、港区三田の薬王寺に母と妹と3人連れ立って、大沼家の墓参りをした折撮ったものです。大沼家代々の墓ですが、この2基の墓石は残念ながら今はもうありません。

 家紋(抱き茗荷)付きで大沼氏とあり、延享四丁卯年(1747)、宝暦五乙亥(1755)等刻されてあります。

 そして、それと向かい合うようにして枕山の父・大沼竹渓(ちっけい)の墓がありました。
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  大沼竹渓の墓

 墓石には「仁譲院徳翁日照居士」とあり「文政十年丁亥十二月廿四日歿享年六十六  孝子 基祐 謹建」とあります。基祐は竹渓亡きあと大沼家を継いだ枕山の叔父にあたる次郎右衛門基祐で、大沼杉井(さんせい)を名乗りました。  この竹渓の墓は現在移され、薬王寺の墓所入口を入ったすぐ左手に安置されています。

 

 私たちがお参りした時には、竹渓の墓の横に、杉井の墓が並んでありましたが、今はありません。
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    大沼杉井の墓

 永井荷風は大正12年(1923)8月24日ここを訪れています(日記)。そして『下谷叢話』には、わたくしは墓地一面に鳴きしきる蝉の声を聞きながら徐に六基の古墳を展した。とあり竹渓、杉井の墓誌が記録されています。

  杉井の碑の側面には「鳰なくやから崎の松志賀の花。槐陰。」となした発句が刻してある。とあります。

 私たちがそこに立った時荷風が展してから61年の年月が流れていました。 杉井の発句は摩滅してかろうじてそれかと思われ、ありあわせの紙に鉛筆で写し取ってみたのでした。

 そして今日、平成29年(2017)、荷風の訪れた年から94年の時を経ており、大沼家の墓は新しく建立され、古墳はそこには1基もなく、枕山の父・竹渓の墓石のみが寺で静かに時を刻んでいます。
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薬王寺と竹渓の墓(現在)
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枕山の墓は、谷中の瑞輪寺にあります。

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2016年11月29日 (火)

太平詩屋出版の「太平詩文」

 『太平詩屋』出版の(江戸明治漢詩文研究雑誌)「太平詩文」がこの11月(2016・11)“第七十号“を以て終刊となりました。

 『太平詩屋』からは枕山の「東京詞」(明治2年・52才)が魅力的な複製本で“太平文庫9”として出版され、「江戸名勝詩」(明治10年・61才)」は停雲会の注解を得て「太平詩文」に掲載されました。

 そして先年(2014・12)内田賢治編著・「大沼枕山逸事集成」が“太平文庫76”として出版され、漢詩人として生涯を生き抜いた枕山の姿が残されました。

 この度、「太平詩文」終刊号には内田賢治氏の“天保十三年の大沼枕山”として、25才の若き日の枕山の、漢詩人として生きていこうと頑張っている姿が、その詩の注解を得て目に浮かぶように語られています枕山と共に若き鱸松塘が居ます。横山(小野)湖山も居ます。

 なんだかうれしくなりました。

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2015年10月10日 (土)

『人性善」の印

 この印はめずらしい鉄製の印で、枕山先生の愛用のものと我が家に伝わっています。

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 文字はユニークな文字で、読みにくいのですが、我が家では『人性善』の印と伝えられて来ました。右上二本足で立って目があるようなのが「人」の文字、その下が「性」、左の羊が書いてあるのがおそらく「善」の文字を意味しているようです。の字にはがいますでしょう。

 表に「天保年中」と書かれ、「七十×」の横にある名前はこの印の作者のようですが、残念ながらよくわかりません。七十余歳の人が天保年間に作ったのでしょうか。

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 何れにしても、枕山先生がこの印を好んでいたことは確かで、幾つかの書幅で、陰・陽印の後に、この印が静かに押印されているのが見られます。

 

 「人性善」は人間の性はもともと善いものであるという性善説を謳ったものでしょうから、枕山先生という人も、人の性を善と信じる人だったと言えると思います。

 この印を見ると、枕山先生の心の温かみを感じずにはいられません。

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2015年8月17日 (月)

ドナルド・キーンさんと枕山の『東京詞』

  8月9日の東京新聞「ドナルド・キーンの東京下町日記」には寄贈した書籍などのコレクションに囲まれたドナルド・キーンさん=東京都北区の区立中央図書館でとして、お元気なキーンさんの写真(伊藤遼氏撮影)が掲載されていました。

 

 そしてふとキーンさんの後ろの掛け軸に目が止まったのです。

もしかして枕山! 早速出掛けました。

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 北区立中央図書館では、ドナルド・キーンさんからの寄贈図書を「ドナルド・キーン コレクション」として公開しています。

 

 図書総数787冊、絵画6点、掛け軸1点です。この掛け軸は大沼枕山の『東京詞』で展示されていてちょっと見えていたのでした。

 

 『東京詞(とうけいし)』は明治2年江戸が明治に激変するさまを詠んだ七言絶句三十首です。江戸の文人である枕山には文明開化に右往左往する東京は耐え難かったのでしょう。その詩は揶揄いっぱいのものでしたから、弾正台の糾問を受けた(廃却処分を命じられた)のです。しかし江戸情緒が失われていくのを惜しむ人々からは喝采をうけたようです。明治24年亡くなるまで丁髷姿を通した人ですから。

 

 キーンさんはその著書「日本文学のなかへ」昭和54年9月30日(株)文芸春秋発行

 

 ・・・木下彪の著書『明治詩話』を見つけたのも同じころである。あの本は戦時中の出版で、五百部しか刷られていなかった。ところが、やはり京都の古本屋で出遇ったために、私は大沼枕山のことを書けた。永井荷風も『下谷叢話』に枕山伝を書いてはいるが、明治元年から二年にかけての枕山の作である『東京詞三十首』を散佚したものと信じていた。『明治詩話』に教えられて、私は明治文学の最初の作品にめぐり合ったのである。・・・としておられます。

 

 『東京詞』はキーンさんによって再び世に出る事が出来たのです。

 

 掛け軸は『東京詞三十首』中の一首を枕山が書いた一幅でした。出会えた私は感激するばかりです。キーンさん有難うございました。

(参考)Wikipedia 「東京詞」https://ja.wikipedia.org/wiki/東京詞

添付ファイル エリア

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2015年4月24日 (金)

枕山の娘婿、大沼鶴林のこと

枕山の娘かねの夫であった大沼鶴林(写真)は、漢学者として、枕山の業績を継承た人なので、鶴林のこともこれからおいおい書きとめていこうと思います。

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わが家の蔵書に「大沼善先生点註」として明治30年に発行された「論語読本」という本があります(写真)。これは漢文を広めようと鶴林が出した教科書です。明治も後半になって、次第に西洋の文化におされ、漢文を学ぶ人も減少する傾向がありました。そのような中、鶴林は漢学普及のために奮闘しました。「善」は善次郎という鶴林の名です。出版したのは「金刺芳流堂」と書かれています。

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2015年3月21日 (土)

枕山先生は豆腐がお好き

 明治20年に刊行された西田春耕著「口嗜小史」は、江戸中後期の文人たち多数の食物の好みをとりあげた書で、それぞれの人柄を彷彿とさせる面白い話しが書かれています。著者の西田春耕は画家です。

 その中で、大沼枕山は豆腐が好物だと書かれ、豆腐の詩を作って返礼したことが記されていますので、ここに紹介します。

 

 “山人(枕山人=大沼枕山)曰ク、余豆腐ヲ愛ス。信州ノ人之ヲ知リ、年々凍豆腐ヲ送リ来ル。詩ヲ以テ謝セント欲シ、稿已ニ成レリ。其詩ニ云、

了冬晴箇々全。嚢盛筐貯遠堪伝。東都気暖凝成脆。北信風厳凍得堅。

彼金峰緻密。比他黄檗軽便。晃山消夏曾遊寺。下酒尤宜浸冷泉。“とあります。

(脆=もろい 晃山=日光 消夏=暑さをしのぐ 下酒=下酒物(酒の肴)

枕山先生は豆腐がお好きでした。勿論お酒あってのこと。

著者の春耕も無類の豆腐好きです。

 

「口嗜小史」は他にも数多くの文人の食の好物が上げられていて、渡辺崋山の団飯豆油炙(ニギリメシショウユノツケヤキ)をはじめとして、藤田東湖の炙鰍鰻(ウナギノカバヤキ)、徂徠の炒豆(イリマメ)、外史は丹醸(イタミザケ)とあります。さればあの方はと繰ってみますと梁川星巌老人は羊羹でした。

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2015年2月21日 (土)

枕山が圓朝と綱引き

明治15年に「皇国雷名の諸君見立力競」と題し、当時の著名人300余人を集め、知名度や力量が拮抗するふたりを一組にして綱引きをさせるという面白い錦絵が出されました。それを見ると、枕山は最前列に描かれ、相対する相手は誰あろう三遊亭圓朝になっています。こうしたことから、この時代漢詩が決して一部の人たちのものでなく、広く親しまれていたことが分かります。

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枕山と圓朝の隣りは徳川慶喜公で、さすがに慶喜公にひとりで対せる人はいなかったようで、16人と綱引きをしています。

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