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2012年10月

2012年10月26日 (金)

永井荷風の「下谷叢話」

大正12年関東大震災の年、枕山の娘かねは麹町にある長女ひさの婚家、楠家に住まいしていました。泉鏡花の家から5,6軒の所です。10月には枕山の33回忌を迎える年です。

 この年7月23日、大沼家を継いだひさの長男正名(まさな)が心臓脚気で18才で亡くなり悲嘆に暮れるこの家に一通の手紙が届きました。差出人は永井荷風で、 近世詩人の伝記を調べ居り(略)、御先代枕山先生御生前の事に付御伺致度き事有之候とありました。

 荷風は8月22日の夜、楠家を訪れ、かねは問われるままに父枕山を思い出し、思い出し語ったのでした。

  荷風の日記(斷腸亭日乘)は大正12年の項に

八月廿九日。午前下谷竹町なる鷲津伯父を訪ひ舊事を聽く。毅堂枕山二先生事蹟考證の資料略取揃へ得たり。

 八月卅一日。終日考證物の資料を整理す。晩餐の後初て考證文の稿を起こす。深更に至り大雨。二百十日近ければ風雨を虞れて夢亦安からず。(中央公論社 荷風全集第十九巻)とあります。

 翌9月1日、関東大震災は起こったのです。

 幸い楠家は被害もなく、家族も無事でした。

 荷風の日記

十月八日。雨纔に歇む。午後下六番町楠氏方に隠居せる大沼嘉年刀自を訪ひ災前に借來りし大沼家過去帳を返璧す。刀自は枕山先生の女芳樹と號し詩を善くす。年六十三と云。この度の震災にも別條なく平生の如く立働きて居られたり。舊時の教育を受けたる婦人の性行は到底當今新婦人の及ぶべき所にあらず。暮雨瀟瀟。夜に入り風聲淅々たり。と記されています。

 そして鷲津毅堂大沼枕山二家の伝は「下谷のはなし」と題して、翌大正13年、雑誌『女性』に連載されました。

 この「下谷のはなし」は大正15年(1926)、春陽堂から「下谷叢話」と題して単行本で出版されました。

 それから昭和14年(1939)になって、荷風はその後寄せられた資料などをもとに手を加え「改定/下谷叢話」を冨山房から出版したのです。

 この冨山房版には枕山の肖像画が載りました。

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2012年10月25日 (木)

枕山の死

〇10月1日

 枕山は明治24年(1891)101日病死し、74才でした。

 大沼の家は明石の人、西川善次郎を迎えてかねが継ぎました。

 娘のひさ(枕山孫)は7才でしたがその記に“せまい横丁は馬車でいっぱいで、中には馬に乗って来られた方もあった。会葬者はシルクハットという正装で枕山の教えを受けた人々が門前にあふれた。立派な人達だと思った。大沼枕山の死去は華やかだった”

とあります。

 我が家にそのときの「報知簿」が残されています。

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「報知簿」には90名の知人門人の方々が記されていますが、なかに“勝 安房”と勝海舟の名があります。信夫恕軒の『大沼枕山傳』に「先生勝海舟ヲ訪ヒ 大イニ時事ヲ論ジ 慷慨激昂 忌憚スル所莫シ」とあります。心が通じ合うところがあったのでしょう。ところで、海舟は維新後は”安芳”と改名していた筈ですから、”安房”と書かれているのは面白く感じます。死ぬまで丁髷姿だった枕山には、海舟は“安房”だったのでしょう。

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 墓は門人達によって谷中の瑞輪寺に建てられ、高さ1メートル50センチの安山岩の表面を平らに加工し、「枕山大沼先生之墓」と隷書体で陰刻されています。文字は門人の隷書家で名高かった中根半嶺(1831~1914)の書だと思います。

 この墓は平成5年(1993)3月、台東区区民文化財・台東区史跡として登載されています。

 

〇枕山翁の易簀

 明治廿四年十月二十日發兌 「早稲田文學」第壹號 牛込早稲田 東京専門學校

に「枕山翁の易簀 ・・・枕山翁もまた逝きぬ本月の國會によりて翁が小傳を左にかかぐ」として枕山の略歴が記されています。  注 易簀=病床のすのこを取りかえる。学徳の高い人の死ぬことを敬っていう語(曽子の故事から)

 「早稲田文学」第一号 に枕山の死が報じられたのでした。

 

〇「枕山先生遺稿集」

枕山の3回忌を迎えた明治26年(1893)の12月、枕山の高弟杉浦梅譚の序を得て「枕山先生遺稿 全」一巻が発刊されました。

梅はほっとした事と思います。この大晦日の夜、たおれて帰らぬ人となりました。

明治27年(1894)正月元旦卒です。

 享年62才、“仙遊院玅香日快大姉”となり枕山と共に瑞輪寺に眠っています。

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2012年10月24日 (水)

枕山の誕生とその家族

〇3月19日

 3月19日は枕山の誕生日です。1818年この年4月22日に文化から文政へと改元されたので、文化15年生まれとする記述もありますが大方は文政元年生まれとしています。

 大沼家には枕山の臍の緒が残されて居り、包み紙に、“大沼捨吉 文政寅年三月十九日暁六時 生髪臍緒”と墨書されています。

  

〇枕山の父

 枕山の父は大沼次右衛門。幕府の小吏で竹渓と号し漢詩人として知られた人でした。松崎慊堂の「慊堂日暦」文政6年8月24日の記述に“大沼竹渓 治右衛門と称す。与力にして事を致せる者。今は下谷加藤候の南に居る。細井平州の門人。”(東洋文庫)と記されています。

 

〇枕山の母

 枕山の母はその出生、名等伝えられていません。竹渓の死後、宮様士太田一に再縁し文久2年(1862)8月30日に没し、日暮里の禅宗青雲寺の太田家の墓に葬られ、寺の過去帳に“月桂院蘭室智秀大姉”とありますが墓は残されていません。

 

〇妻

弘化4年(1847)枕山30才の時、妻を娶りましたが、この人はもともと病弱であったようで安政2年10月2日の江戸大地震の後患い、安政3年(1856)9月晦日に病没、戒名は“積信院一乗妙道大姉”。貧乏な枕山をささえた賢婦人であったようですが、甲州の井上氏の出ではなかったか?と云うのですがはっきりしていません。

子供はありませんでした。

 

〇後妻

 安政4年(1857)枕山40才の秋、叔父大沼次郎右衛門の世話で太田嘉兵衛(蔵前の札差と伝わる)の養女梅を後添えとしました。天保4年(1833)66日生まれで25才でした。

 梅の実父は鈴木清吉といい、深川椀蔵町(江東区冬木)で金銀細工の御用達をしていた人で、梅は10才くらいの時から父の知人である太田家に引き取られました。

 叔父次郎右衛門は茶技・俳諧を嗜み、太田家と親しく交わっていたので、士族である自分の養女として枕山に娶わせたと云うことです。

 鈴木清吉は中村佛庵(幕府の御用畳屋・書家。天保5年没、84才)の弟子で書を能くしたそうです。

 梅は万延元年(1860)2月、男の子を生み、梅痴上人が錀太郎と名づけて下さったのでしたが、この子は62日亡くなったのです。

 そして翌年、文久元年(1861)1222日、女の子を儲け、嘉年(かね)と名づけられました。

 梅は背のスラットした人でお正月などお引き摺りの姿は見とれるほどだったと、

娘のかねが伝えています。

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2012年10月21日 (日)

枕山の肖像画

我が家に伝わった肖像画です。

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明治も24年になって亡くなった枕山ですが写真はありません。最後まで丁髷姿を通した人故写真は無縁であったと思われます。

 肖像画が残されておりその面影を偲ぶことが出来るのは幸いです。

 

『枕山詩鈔 三編 巻之下』丙寅(慶応2年 1866)に

「琴抱道人倩鵞湖寫余真以乞題詩賦此書其上頭」と題し

 “倩工為我寫衰顔。對此思量事幾般。詩自宋元窺以上。心於夷惠要其間。也知形状非隆貴。自判生涯是散閒。好準白家當日例。併將全集置廬山。”

と有り、鵞湖(鈴木鵞湖1816-1870)の描いた枕山の肖像画が有った事が分かります。慶応2年は枕山49才です。(今、鵞湖の手に成る肖像画は未見)

この鵞湖の描いた肖像画を門弟の中島杉陰が模したものが残されています。

 明治13年3月15日付け枕山から門弟嵩古香宛の書簡に・・・肖像之儀、一昨日之御返事ニ漏し候ニ付、附録奉差上候。先頃<旧蠟中>薬王寺<断常師>の者出来、遣し候。是、七律を題し候也。此度者別々の事、七律を可題候。畫料、杉陰者一圓半を請候間、右之カタニ而可然候也。餘者後期、委細可奉申上候。・・・

 とあり、この頃杉陰の手で肖像画がいくつか描かれており、門弟嵩古香の元にあったものが後に“東京大学史料編纂所”に納められていて、冨山房版の「下谷叢話」が出版された折この肖像画が掲載されたのでした。

 

 コピー機のない時代、模写ですから一枚一枚どこか違っているでしょう。

 ここに載せた枕山像は我が家にあるもので、三浦雪堂画師の再模写で枕山の孫のひさは認めていた枕山像なのですが・・・

 「文武高名録」(明治廿六年九月出版)に所載の枕山像はあごは二重で目鼻の大きい丸顔です。この像に孫のひさはよく似ていました。

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