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2012年11月

2012年11月 5日 (月)

荷風と鴎外そして枕山

昭和34年(1959)4月30日永井荷風は亡くなりました。

その日、独り逝った荷風の床には敬愛する森鴎外の「渋江抽斎」が開かれていたそうです。

「下谷叢話」に、荷風は鴎外とのひと時を記しています。不忍池あたりを述べて、

 

・・・明治四十四年の秋に至って、わたくしはこゝに森鷗外先生と相會して倶に荷花(ハス)を觀た事を忘れ得ない。その時先生は曾て大沼枕山先生に謁して(会って)贄を執らん(教えを乞う)ことを欲して拒絶せられたことを語られた。枕山が花園町に住してゐた時だと言われたから其の歿した年である。・・・

 

鴎外が同人たちと刊行した『志がらみ草紙 第十四號』(新聲社 明治23102日発兌)に枕山の「弁玉師和歌碑文」が掲載されています。

鴎外が枕山に会ったのはこの頃のことではないでしょうか。

『文学 特輯 鷗外研究』(岩波書店 昭和116月1日発行)に鴎外の妹、小金井喜美子の「森於菟に」という一文があります。

 

・・・舞姫をお書きになりました。・・・あれは花園町でお書きになったのです。裏二階の書齋で、不忍池は間にある家の木立でちらちらしか見えませんが、上野の森の傍ですから夜は淋しい位静かでした。周りに高い建物もなく、夏などは明け放すとよい風のはいる部屋でした。北側の窓から小藪を隔てて枕山といふ詩人が寐て居る二階が見えました、中風らしく氣の毒に思われました。賀古さんが「いやだなあ、あんなになるのは」。見る度にいって御出でした、ご自分もお酒を上がるものですから。でも賀古さんの終はお望み通り腦溢血であつけない程でした。・・・

 

この花園町の鴎外の家は現在“水月ホテル鴎外荘”となり鴎外ゆかりの邸が「舞姫の間」として残されています。

枕山が仲御徒町から花園町へ転居したのは明治23年の春で、鴎外は10月には駒込千駄木町五十七番地に居を移していますから、鴎外と枕山が小藪を隔てて暮らしたのは春から秋のおよそ半年間のことになります。

  この春大沼家では枕山の二人目の孫甲子が生まれています。この甲子は長じて小金井喜美子の夫君人類学者小金井良精の門弟、長谷部言人の妻になりました。

 

  荷風は鴎外の「渋江抽斎」などの伝記に倣って「下谷のはなし(下谷叢話)」に取り組んだと言われています。

 母方の祖父である鷲津毅堂の事蹟と併せて大沼枕山の伝を著したのでした。

 

「弁玉歌碑」横浜市指定史跡   横浜市神奈川区高島台5-2高島台公園内

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 幕末から明治初期の歌人大熊弁玉の歌碑。碑文の撰ならびに書は大沼枕山。

(『志がらみ草紙 第十四號』にその碑文が全文掲載されています。)

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