文化・芸術

2015年4月24日 (金)

枕山の娘婿、大沼鶴林のこと

枕山の娘かねの夫であった大沼鶴林(写真)は、漢学者として、枕山の業績を継承た人なので、鶴林のこともこれからおいおい書きとめていこうと思います。

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わが家の蔵書に「大沼善先生点註」として明治30年に発行された「論語読本」という本があります(写真)。これは漢文を広めようと鶴林が出した教科書です。明治も後半になって、次第に西洋の文化におされ、漢文を学ぶ人も減少する傾向がありました。そのような中、鶴林は漢学普及のために奮闘しました。「善」は善次郎という鶴林の名です。出版したのは「金刺芳流堂」と書かれています。

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2015年3月21日 (土)

枕山先生は豆腐がお好き

 明治20年に刊行された西田春耕著「口嗜小史」は、江戸中後期の文人たち多数の食物の好みをとりあげた書で、それぞれの人柄を彷彿とさせる面白い話しが書かれています。著者の西田春耕は画家です。

 その中で、大沼枕山は豆腐が好物だと書かれ、豆腐の詩を作って返礼したことが記されていますので、ここに紹介します。

 

 “山人(枕山人=大沼枕山)曰ク、余豆腐ヲ愛ス。信州ノ人之ヲ知リ、年々凍豆腐ヲ送リ来ル。詩ヲ以テ謝セント欲シ、稿已ニ成レリ。其詩ニ云、

了冬晴箇々全。嚢盛筐貯遠堪伝。東都気暖凝成脆。北信風厳凍得堅。

彼金峰緻密。比他黄檗軽便。晃山消夏曾遊寺。下酒尤宜浸冷泉。“とあります。

(脆=もろい 晃山=日光 消夏=暑さをしのぐ 下酒=下酒物(酒の肴)

枕山先生は豆腐がお好きでした。勿論お酒あってのこと。

著者の春耕も無類の豆腐好きです。

 

「口嗜小史」は他にも数多くの文人の食の好物が上げられていて、渡辺崋山の団飯豆油炙(ニギリメシショウユノツケヤキ)をはじめとして、藤田東湖の炙鰍鰻(ウナギノカバヤキ)、徂徠の炒豆(イリマメ)、外史は丹醸(イタミザケ)とあります。さればあの方はと繰ってみますと梁川星巌老人は羊羹でした。

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2015年2月11日 (水)

内田賢治氏編著「大沼枕山逸事集成」

龍谷大学図書館の内田賢治氏編著『大沼枕山逸事集成』が太平書屋から出版されました。実にご苦労のほどが偲ばれる一冊です。

 枕山の人となりが親しみやすく、いきいきと感じられ楽しい。

 中の一編に門人の河合次郎が枕山没後の明治24年に新聞に連載した「枕山先生逸事」があります。その連載第十五回の記事に安政の大地震直後に、すぐさま枕山が“地震行”と題した詩を作ったことが記されています。記事には

・・・ 安政二年十月二日都下(とか)地大に震ふ先生長篇を賦し直(たゞ)ちに片紙に印刷して知己(ちき)に頒(わか)つ或ハ曰く書舗(しょほ)に命じて之を售(う)る幾千百葉(ゑう)一時に散布す大に都下に膾炙(くわいしゃ)せり ・・・ とあり、その詩 ・・・ 大災異に遇(あ)はざれば真の敬戒を知らず ・・・ に始まる長い詩が全文載せられています。

 大地震の恐ろしさ悲惨さが、最近起きた災害の惨状と重ね合わせて想われて身に迫ります。

 内田氏はこの詩について「地震から政道を諷諫した作であり、刊行詩集からは窺われない枕山の一面が窺われる作として注目すべき作といえる」としておられます。

 諷諫(ふうかん)= 他のことに事よせてそれとなくいさめること。

枕山は幕府へ、民への救済への素早い対応を求めているのです。

 “花鳥風月の詩興に遊んだ”ばかりではなかった枕山先生がここに居ました。

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2012年11月 5日 (月)

荷風と鴎外そして枕山

昭和34年(1959)4月30日永井荷風は亡くなりました。

その日、独り逝った荷風の床には敬愛する森鴎外の「渋江抽斎」が開かれていたそうです。

「下谷叢話」に、荷風は鴎外とのひと時を記しています。不忍池あたりを述べて、

 

・・・明治四十四年の秋に至って、わたくしはこゝに森鷗外先生と相會して倶に荷花(ハス)を觀た事を忘れ得ない。その時先生は曾て大沼枕山先生に謁して(会って)贄を執らん(教えを乞う)ことを欲して拒絶せられたことを語られた。枕山が花園町に住してゐた時だと言われたから其の歿した年である。・・・

 

鴎外が同人たちと刊行した『志がらみ草紙 第十四號』(新聲社 明治23102日発兌)に枕山の「弁玉師和歌碑文」が掲載されています。

鴎外が枕山に会ったのはこの頃のことではないでしょうか。

『文学 特輯 鷗外研究』(岩波書店 昭和116月1日発行)に鴎外の妹、小金井喜美子の「森於菟に」という一文があります。

 

・・・舞姫をお書きになりました。・・・あれは花園町でお書きになったのです。裏二階の書齋で、不忍池は間にある家の木立でちらちらしか見えませんが、上野の森の傍ですから夜は淋しい位静かでした。周りに高い建物もなく、夏などは明け放すとよい風のはいる部屋でした。北側の窓から小藪を隔てて枕山といふ詩人が寐て居る二階が見えました、中風らしく氣の毒に思われました。賀古さんが「いやだなあ、あんなになるのは」。見る度にいって御出でした、ご自分もお酒を上がるものですから。でも賀古さんの終はお望み通り腦溢血であつけない程でした。・・・

 

この花園町の鴎外の家は現在“水月ホテル鴎外荘”となり鴎外ゆかりの邸が「舞姫の間」として残されています。

枕山が仲御徒町から花園町へ転居したのは明治23年の春で、鴎外は10月には駒込千駄木町五十七番地に居を移していますから、鴎外と枕山が小藪を隔てて暮らしたのは春から秋のおよそ半年間のことになります。

  この春大沼家では枕山の二人目の孫甲子が生まれています。この甲子は長じて小金井喜美子の夫君人類学者小金井良精の門弟、長谷部言人の妻になりました。

 

  荷風は鴎外の「渋江抽斎」などの伝記に倣って「下谷のはなし(下谷叢話)」に取り組んだと言われています。

 母方の祖父である鷲津毅堂の事蹟と併せて大沼枕山の伝を著したのでした。

 

「弁玉歌碑」横浜市指定史跡   横浜市神奈川区高島台5-2高島台公園内

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 幕末から明治初期の歌人大熊弁玉の歌碑。碑文の撰ならびに書は大沼枕山。

(『志がらみ草紙 第十四號』にその碑文が全文掲載されています。)

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2012年10月25日 (木)

枕山の死

〇10月1日

 枕山は明治24年(1891)101日病死し、74才でした。

 大沼の家は明石の人、西川善次郎を迎えてかねが継ぎました。

 娘のひさ(枕山孫)は7才でしたがその記に“せまい横丁は馬車でいっぱいで、中には馬に乗って来られた方もあった。会葬者はシルクハットという正装で枕山の教えを受けた人々が門前にあふれた。立派な人達だと思った。大沼枕山の死去は華やかだった”

とあります。

 我が家にそのときの「報知簿」が残されています。

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「報知簿」には90名の知人門人の方々が記されていますが、なかに“勝 安房”と勝海舟の名があります。信夫恕軒の『大沼枕山傳』に「先生勝海舟ヲ訪ヒ 大イニ時事ヲ論ジ 慷慨激昂 忌憚スル所莫シ」とあります。心が通じ合うところがあったのでしょう。ところで、海舟は維新後は”安芳”と改名していた筈ですから、”安房”と書かれているのは面白く感じます。死ぬまで丁髷姿だった枕山には、海舟は“安房”だったのでしょう。

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 墓は門人達によって谷中の瑞輪寺に建てられ、高さ1メートル50センチの安山岩の表面を平らに加工し、「枕山大沼先生之墓」と隷書体で陰刻されています。文字は門人の隷書家で名高かった中根半嶺(1831~1914)の書だと思います。

 この墓は平成5年(1993)3月、台東区区民文化財・台東区史跡として登載されています。

 

〇枕山翁の易簀

 明治廿四年十月二十日發兌 「早稲田文學」第壹號 牛込早稲田 東京専門學校

に「枕山翁の易簀 ・・・枕山翁もまた逝きぬ本月の國會によりて翁が小傳を左にかかぐ」として枕山の略歴が記されています。  注 易簀=病床のすのこを取りかえる。学徳の高い人の死ぬことを敬っていう語(曽子の故事から)

 「早稲田文学」第一号 に枕山の死が報じられたのでした。

 

〇「枕山先生遺稿集」

枕山の3回忌を迎えた明治26年(1893)の12月、枕山の高弟杉浦梅譚の序を得て「枕山先生遺稿 全」一巻が発刊されました。

梅はほっとした事と思います。この大晦日の夜、たおれて帰らぬ人となりました。

明治27年(1894)正月元旦卒です。

 享年62才、“仙遊院玅香日快大姉”となり枕山と共に瑞輪寺に眠っています。

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2012年10月24日 (水)

枕山の誕生とその家族

〇3月19日

 3月19日は枕山の誕生日です。1818年この年4月22日に文化から文政へと改元されたので、文化15年生まれとする記述もありますが大方は文政元年生まれとしています。

 大沼家には枕山の臍の緒が残されて居り、包み紙に、“大沼捨吉 文政寅年三月十九日暁六時 生髪臍緒”と墨書されています。

  

〇枕山の父

 枕山の父は大沼次右衛門。幕府の小吏で竹渓と号し漢詩人として知られた人でした。松崎慊堂の「慊堂日暦」文政6年8月24日の記述に“大沼竹渓 治右衛門と称す。与力にして事を致せる者。今は下谷加藤候の南に居る。細井平州の門人。”(東洋文庫)と記されています。

 

〇枕山の母

 枕山の母はその出生、名等伝えられていません。竹渓の死後、宮様士太田一に再縁し文久2年(1862)8月30日に没し、日暮里の禅宗青雲寺の太田家の墓に葬られ、寺の過去帳に“月桂院蘭室智秀大姉”とありますが墓は残されていません。

 

〇妻

弘化4年(1847)枕山30才の時、妻を娶りましたが、この人はもともと病弱であったようで安政2年10月2日の江戸大地震の後患い、安政3年(1856)9月晦日に病没、戒名は“積信院一乗妙道大姉”。貧乏な枕山をささえた賢婦人であったようですが、甲州の井上氏の出ではなかったか?と云うのですがはっきりしていません。

子供はありませんでした。

 

〇後妻

 安政4年(1857)枕山40才の秋、叔父大沼次郎右衛門の世話で太田嘉兵衛(蔵前の札差と伝わる)の養女梅を後添えとしました。天保4年(1833)66日生まれで25才でした。

 梅の実父は鈴木清吉といい、深川椀蔵町(江東区冬木)で金銀細工の御用達をしていた人で、梅は10才くらいの時から父の知人である太田家に引き取られました。

 叔父次郎右衛門は茶技・俳諧を嗜み、太田家と親しく交わっていたので、士族である自分の養女として枕山に娶わせたと云うことです。

 鈴木清吉は中村佛庵(幕府の御用畳屋・書家。天保5年没、84才)の弟子で書を能くしたそうです。

 梅は万延元年(1860)2月、男の子を生み、梅痴上人が錀太郎と名づけて下さったのでしたが、この子は62日亡くなったのです。

 そして翌年、文久元年(1861)1222日、女の子を儲け、嘉年(かね)と名づけられました。

 梅は背のスラットした人でお正月などお引き摺りの姿は見とれるほどだったと、

娘のかねが伝えています。

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2012年10月21日 (日)

枕山の肖像画

我が家に伝わった肖像画です。

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明治も24年になって亡くなった枕山ですが写真はありません。最後まで丁髷姿を通した人故写真は無縁であったと思われます。

 肖像画が残されておりその面影を偲ぶことが出来るのは幸いです。

 

『枕山詩鈔 三編 巻之下』丙寅(慶応2年 1866)に

「琴抱道人倩鵞湖寫余真以乞題詩賦此書其上頭」と題し

 “倩工為我寫衰顔。對此思量事幾般。詩自宋元窺以上。心於夷惠要其間。也知形状非隆貴。自判生涯是散閒。好準白家當日例。併將全集置廬山。”

と有り、鵞湖(鈴木鵞湖1816-1870)の描いた枕山の肖像画が有った事が分かります。慶応2年は枕山49才です。(今、鵞湖の手に成る肖像画は未見)

この鵞湖の描いた肖像画を門弟の中島杉陰が模したものが残されています。

 明治13年3月15日付け枕山から門弟嵩古香宛の書簡に・・・肖像之儀、一昨日之御返事ニ漏し候ニ付、附録奉差上候。先頃<旧蠟中>薬王寺<断常師>の者出来、遣し候。是、七律を題し候也。此度者別々の事、七律を可題候。畫料、杉陰者一圓半を請候間、右之カタニ而可然候也。餘者後期、委細可奉申上候。・・・

 とあり、この頃杉陰の手で肖像画がいくつか描かれており、門弟嵩古香の元にあったものが後に“東京大学史料編纂所”に納められていて、冨山房版の「下谷叢話」が出版された折この肖像画が掲載されたのでした。

 

 コピー機のない時代、模写ですから一枚一枚どこか違っているでしょう。

 ここに載せた枕山像は我が家にあるもので、三浦雪堂画師の再模写で枕山の孫のひさは認めていた枕山像なのですが・・・

 「文武高名録」(明治廿六年九月出版)に所載の枕山像はあごは二重で目鼻の大きい丸顔です。この像に孫のひさはよく似ていました。

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